反知性主義とは

基本的にリベラルが大衆に向かって言うセリフのはずだが、なぜか日本では逆転している。
対案がなくても反対して良いとか、声を大にして言いたいというのはでは単にノート叫ぶだけなのでは?、それってすごく反知性ではないのか?
これだけなんでも調べられる時代なのだから、それほど大きな努力なしでもある程度の回答はわかるはず。しかし対案は出せないというのは、出せないのではなくて現実的な対案が無いのがわかっていて言えないからでは?、だからただ叫ぶだけ、理性なんか要らないと言わんばかり。
そして人を集めるというのは、まさにこれだと思うのだが。